ソロモン諸島政府観光局ブログ

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スペイン人の2度目の航海

 

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今回の記事はメンダーニャの2回目のソロモン諸島への航海についてです。

彼は1595年4月9日に子供や女性を含めた378人とともに4隻の船で出発しました。目的はソロモン諸島の植民地化でした。ソロモン諸島は他のヨーロッパの国がフィリピン等を攻撃するための足がかりとなりうる重要な地域であると考えられており、スペインが最初にソロモン諸島を植民地にしてしまおうという意図があったとされています。また、この航海でメンダーニャはペルーとソロモン諸島しか載っていない航海図を用意させたという逸話もあります。彼らはまずマルケサス諸島に到着したのち、出発から約5カ月後にサンタクルーズ諸島のネンド島を見つけ、入植をはじめました。ソロモン人とスペイン人の関係は当初は良好でしたが入植者であるスペイン人の士気の低さや病気、繰り返される殺人により、またしても関係は悪化していきました。メンダーニャが10月18日に亡くなったことや内部での対立もあり、結果として入植はうまくいかず10月30日に植民地化を断念することを決定しました。11月18日、3隻の船でソロモン諸島を発ちフィリピンのマニラに向けて航海を始め、2月11日に到着しました。その後6月にメキシコに戻ったと言われています。

また、メンダーニャの死後は妻のイザベルが彼の地位を引き継ぎました。彼女はヨーロッパの歴史の中で初めての女性の船長であったと言われています。彼女は類稀なリーダーシップを発揮し、船員に対しかなり厳しい態度をとって船員の陰謀や反抗を抑えていたようです。また彼女はマニラへの航海の途中、食糧を船員に十分に配分しなかったことも犠牲者が多く出た原因に挙げられています。

メンダーニャのこの2回目の航海も結果的にソロモン諸島の植民地化という目的を達成することはできませんでした。また、航海に出た378人は最終的に約100人しか残らず、多くの犠牲者を出す結果となりました。

1606年にスペイン人はもう一度ソロモン諸島に到達していますが植民地化はかなわずその後は1767年になるまでヨーロッパ人はソロモン諸島に訪れることはなかったと言われています。

 

 

参考資料

https://en.wikipedia.org/wiki/Álvaro_de_Mendaña_de_Neira

https://en.wikipedia.org/wiki/Isabel_Barreto

http://grandesviajeros-tiempodeviajar.blogspot.com/2017/11/alvaro-de-mendana-y-neira-1541-1595.html

https://hidalgosenlahistoria.blogspot.com/2017/06/alvaro-de-mendana-y-neira-adelantado-de.html

 

(文/高松優至)