ソロモン諸島政府観光局ブログ

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ソロモン人の暗い歴史 ブラックバーディング

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ソロモン人と欧米人の交流は必ずしも明るいものばかりではありませんでした。

その暗い歴史の一つがブラックバーディングと呼ばれる白人交易人の労働力調達です。1863年から1904年の間で約57000人のメラネシア人がオーストラリアのニューサウスウェールズクイーンズランドに連れて来られ、主に砂糖プランテーションで低賃金労働をさせられました。基本的に3〜6年の期限付き労働であり、オーストラリア以外のフィジーニューカレドニアサモアにある白人入植者の農園で労働させられた人も含めると延べ10万人に及ぶと言われています。

 

理論上は白人と労働者は労働契約を結んだ上で自主的に海を渡ったとされていますが特に初期は白人交易人による誘拐が多かったと言われています。白人が労働者を連れ去った手段としては、現地人がカヌーで近づいてきたところを石や鉄鉱石を使って沈め、彼らを助けそのまま船で連れ帰ったり、白人が上陸し、現地の人々に酒やタバコを振る舞い、船に同様のものがあると誘い込み、船に閉じ込めて連れ去ったりするなど、いわゆる現地の人々を騙す奴隷狩りが行われていました。

 

1870年にクイーンズランド政府はこのような奴隷狩りを禁止する法律を制定し、労働者の意志の確認と人道的扱いをチェックする政府の代理人リクルート船に乗せることにしましたが、必ずしもこの制度が十分に機能していたかというとそうとは言い切れないところがあります。

しかしその後、宣教団の圧力もあり、1872年イギリス政府は太平洋諸島民保護法を制定し、クイーンズランド政府王立調査委員会は1890年以降、メラネシア人の勧誘を禁止しました。さらに連邦政府が1904年以降メラネシア人勧誘禁止を法律で定め、基本的に一定の条件を満たさないメラネシア人は国外追放となりました。

 

このように制度的な制約により非人道的なブラックバーディングは徐々に減っていきましたが、その一方で自ら志願する者が増えていったことでその性質は大きく変化していきました。

 

1870年代以降(関根さんの記事によると)に志願して渡航する者が増えた理由は、西洋物品を持ち帰ることができたからです。彼らは帰国時に銃や鉄製品などの近代的西洋的物品を持ち帰り、それを誇示することで他者より優位に立つことができ社会的な地位を向上させることができました。ある研究によると1885年から1911年までの全て島嶼出身労働者のうち29%がブラックバーディング経験者であったというデータもありその多くは志願者であったとされています。

 

このように、初期のブラックバーディングは誘拐としての様相を呈していたものが多いですが、時が経つにつれて自主的な意思により渡航するものも増えていった事実から、ブラックバーディングという言葉は歴史的様相を必ずしも適切に表現していないと主張する人もいます。

 

誘拐であったか、自主的であったか、いずれにしても白人交易人が始めたこの制度はソロモン人に大きな影響を与えました。1985年にフィジーに住んでいたソロモン諸島系住民のジェシー・アフが作詞作曲した“The Children who came from Faraway Island”の歌詞の中からはソロモン人の苦悩が伝わってきます。

 

ソロモン諸島

あなたは遠くかなたに浮かんでいる

あなたの子供たちは今、フィジーで暮らしています

今でも忘れない

我々の祖先が連れてこられた日のことを

英国人に騙され、家族に別れも告げずに

船で連れて来られた日のことを

 

 

参考資料

関根久雄 島々と階級:太平洋島嶼諸国における近代と不平等 第4章「ブラックバーディング」は終わらない  −フィジーにおけるソロモン諸島系住民の「階級性」とその表象−

 

http://www.let.osaka-u.ac.jp/seiyousi/bun45dict/dict-html/00128_Blackbirding.html

 

(文/高松優至)